わたしのことはきらいになっても

僕の音楽が好きだといってくれる人が僕を好きとは限らない。

悲しいことかもしれないけれど、音楽を作る立場としては

それはそれでいいことかもしれないとおもう。

 

音楽を続けていると、いろんなひとと出会う。

僕の音楽を好きになってくれる人、そうじゃない人。

ライブが良かったっていってくれる人でも、また聴きに来てくれる人もいれば、

その次はない人もいるし、やっぱりいろいろな環境の変化もあるだろうし、

理由だとか心情だとか、人の気持ちは時間の流れとともに変わってしまう。

 

なにより音楽自体に形がないし、感情移入する器がとても不安定だ。

 

それなのに、僕はそんな人たちの存在や言葉一つ一つで一喜一憂してしまう。

だから、やっぱり表現する側には向いてないのかもしれない。

特にSNSとか、望まない情報に振り回される洗濯機みたいな場所だと思うし。

 

そもそも評価してほしいものってなんだろう、と考えてみる。

やっぱり音楽で表現しているから、純粋にこの音楽が評価されてほしい。

僕がいい人か悪い人かとか、親しみやすいとかそうじゃないとか、じゃなくて。

もちろん人には嫌われるより好かれたいよ。

たとえば、誰かが話しかけてくれるのは嫌なことじゃないし、

むしろ話しかけてくれてありがとうって気持ちはある。とてもある。

でも、僕が子どものころに憧れた有名なバンドとかって

その人がどういう人かとかぜんぜん関係ないところで好きになってた。

音楽を聴いて、その歌はどんなひとが作っているんだろうって考えたりして

でも、その先で深く知りたいとかは思わなかったはずなんだよな。。

届けてくれる音楽がかっこよければそれでよかった。

 

前提として矛盾したことを言ってる。

音楽を通じて人に好意的にみてもらえるのはうれしいこと。

でも、その好意が音楽の価値を高めているのだとしたら

ちょっと悔しいような気持ちもある。

 

だけど見る角度を変えたら見え方が変わる。

僕もバンドを始めて長くなってきて、知り合って好きになる音楽が増えた。

自分でも、やっぱり心の内を歌っているし、

やっぱり人間を知ることって、大切なのかもしれない。

よく考えたら、その人がどういう人だろうって調べたり

雑誌の対談を読んでみたりすることもあるもんな。

 

何より、寄せてもらえる言葉でまだ音楽続けられるって思う僕自身がいる。

自問自答して、結局ぐるぐる回る洗濯機みたいな日記だった。

解けて散るってさ

3/21にピラモールというバンドの解散企画に出演することになった。

砂場ではなくて、時々一緒にやっている里帰りのゆりさんとのデュオで。

ゆりさん繋がりだから、正直に言えば僕は彼らの名前しか知らなかった。

毎日のようにどこからか回ってくるツイッターのライブ告知リツイートに

名前が載っていて知っていたレベルだから、個人的には申し訳なさもあるけれど

この二人での出演に期待してくれてのオファーなので

ぜひ精一杯を尽くしたいと思う。

 

先週、東京でこのライブに向けてスタジオ入りした後、せっかくだからと

同バンドのベーシストである浅野シンイチくん(仮名)と

一緒に飲むことになった。ちなみにこの人も名前だけずっと知ってた。

名前だけ知ってるって、ぜんぜん知らないことをごまかすとき

よく使われるけれど、、本当に名前だけ知ってた。

口にピアスをあけた人という事前情報だったから、

すこしばかりの警戒心を帯びて対面したのだけれど、

とても友好的な人だった。そしてとても良い人だった。

バンドに対しての想いがあって、自分ができることをやろうとしていて

ボーカルを支えたいと思って、とかそんな話を聞いて

立派な子だ・・としみじみした。それでも解散しちゃうんだけど。。

砂場はほとんどを僕一人が動かしているから、

聞いていてやっぱりぜんぜん違うんだなって思った。

 

バンドって本当に国だと思う、ものすごく単位の小さな。

国が違うと文化がぜんぜん違うもんな。

豚肉食べないレベルのカルチャーショックとかザラだもんな・・。

普通他のバンドへの問い合わせメールとかなにかしら返信あってもいいのに

完全無視とかほんとあるもんな・・。あ、話し逸れた。

紹介状ないと治療してくれない病院みたい・・。あ、また逸れた。

スリマの風間君に話したら「みんな忙しいから仕方ない」って

言われて、そのときはなんて冷たいことをいうやつなんだって憤慨したけど

今考えると、ものすごい正論とわかる。不本意に国際理解力が向上している。

・・もう本題から逸れて軌道修正が難しくなってきた。

 

ともあれ、シンイチ君(仮名)はとても良い人だったから、

また音楽を続けられるバンドが見つかってくれるといいなと思った。

 

解散ライブって言えばそのバンドにとって最後のライブ。

やっぱり最後はって観に来てくれるお客さんも多いんだろうな。

そして少しだけ聞いたけど、この日の予約もすでにかなり入ってるらしい。

素直に羨ましいなと思った。足を運ぶ人がそれだけいるってことは、

それだけ寄せてもらえる想いがあるってことだから。

 

バンドはいつか解散する。

前に僕は、解散ライブはやりたくないって言ってた。

お世辞にも毎回のライブにそんな沢山のお客さんが来てくれるってわけじゃない。

そんな自分の音楽が、最後しか観てもらえないとしたら、存在価値なんて

あるんだろうかってそんな風に考えてしまうのが嫌だったから。 

でも、やっぱり最後くらい観てほしいって気持ちもほんとうは解るんだ。

たぶんSNSで解散って書いて拡散させて、関係ない人まで巻き込んで

気を惹こうとするのが好きになれないんだ。

たぶん解散ライブが嫌いなんじゃなくて、

こういうときのSNSが嫌いなんだとおもう。

想いを寄せてくれる人にだけちゃんと届けば、たぶんそれでいいんだから。

 

 

解散ライブはやらないなんて言ってる本当の理由、それは単に怖いからだ。

自分に突きつけてしまう現実があることが。

でも、これは何よりもまだ続けていたいって心の顕れでもある。

抗って、なんとか生き延びたいって気持ちなんだと思う。

 

www.youtube.com

自分は幸せ者だって誤魔化す為に生きている

そんなの考え過ぎだって 言い聞かせても鳴り止まない

他人と比べてどうだとか 今居る場所は何処だとか

そんなの考えすぎるから 時間ばっかりが過ぎてゆくんだな

 

誰かの必要不可欠になれたらそれは素晴らしい

でもやっぱり辛くなるから 居ても居なくても同じでいい

他人と比べてどうだとか 「生きてく理由とは?」だとか

そんなのどうだっていいのに 目の前の君が笑えたらいいのに

 

言葉にすれば形になる うまく言えない想いさえも

窓辺に並べて飾ったら 夜明けを待たずに溶けてしまう

 

「自分は幸せ者だって 気づけないことが不幸せ」

わかるよそれは本当にそう でもやっぱり響かないんだ

自分を否定することで 想い寄せてくれる人も

だんだん疲れてゆくことに 離れてしまうまで気づけないんだな

 

言葉にすれば形になる うまく言えない想いさえも

窓辺に並べて飾ったら 夜明けを待たずに溶けてしまう

君の願いも知れないまま

新年関係ない。信念ならちょっと関係ある。

たとえばのはなし。

プラスの100を得るために70のマイナスを被らなくてはいけないとして。

もしプラスマイナスでっていう考え方をすればプラス30だから、

結果的にはOKということ。とてもポジティブ。 

でもこれ、本当に自己完結できる・・?

 

少なくとも僕にとっては確実に70のダメージが其処に残る。

100もらっても。

うれしいこと、それはそれだし。かなしいこと、これはこれだ。

 

どんなことでもいいけれど、行動する目的はいくらかのプラスを得ることだ。

純粋なプラスでも、何かしらマイナスの回避でも、

人との枠の中で作用するのなら、必ずその方向への期待がある。

 

何かをするごとに誰かに何らかの形で作用している。

だけど、誰かと関われば、誰かと距離が近づけば、

そこには必ず摩擦が生まれる。

どこからみても完璧な人間なんていない、

そんなことはとうにわかってはいるけれど。

摩擦係数0のひとなんていない。

そんなことだってわかってる。

 

たとえばだれかに70嫌われたとする。でも100好きになってもらえるなら

それはほんとうにプラスの30だろうか。

 

きっとこころに体力がないんだ。たぶん3くらいしかない。

だから70も食らったら死んでしまうよ。

いや、どうせ死なない。からだの体力じゃないから。

でも、マイナスはほしくない。だからプラスもなくていい。

いっそはじめから何もなければいい。少なくとも0のままでいられる。

 

ひととおりを吐き出して。でもこれは矛盾している。

僕はまだうたを歌っている。歌う場所をつくっている。

こんなに傷つきたくないなどと考えながら

まだ自分から人に働きかけようとしている。関わろうとしている。

 

結局、利己的な思考の塊みたいなものが勝手に

頭の中を区画整理をしてしまってすべて丸く治めようとしている。

また繰り返す。

うれしいこと、それはそれ。かなしいこと、これはこれ。

 

最終的に出口は無い。

たぶん何を言われてもこの考え方はどうせ変わらない。

向き合うしかない。死ぬまではどうせ生きてしまうのだから。

 

ヒーリングミュージック。

www.youtube.com

としのせ

2015年最後の日。最後だからって何かするわけじゃないけど。

昨日のザーザズーのライブで、今年のライブ活動は終わり。

名古屋から浜松、静岡、そして東京へと歌って巡るツアーだった。

今まであまりこんな行程を組んだことなかったんだけれど、

毎日違う土地に身を置いて、そこで集まる人たちに向かって

歌わせてもらえるということはとても素敵なことだとおもった。

なんというか、生きている心地がした。

ひとりで、というのも今年は気楽で良かった。

  

音楽を続けてきてもうずいぶん長くなるけれど、

今年は一番良い年だったと思える。

それは寄せてもらえた声だったり、込めてもらえた想いだったり、

そういう受け取らせてもらった感情の総量みたいなものから。

 

音楽に形はないから、どんなに全力を尽くしても

それが価値のあるものなのかどうか、手にとって確かめることはできない。

でも、僕が歌う「僕の歌」を言葉だったり、ときには涙だったり、

CDを買ってもらったり、目に見える形で肯定をしてもらえることで

浮き彫りみたいに存在をはじめること。それがどうしようもなくうれしい。

ぼくの歌がそこに存在することは、ぼくにとってはもう

自分自身がそこに在ることと同じ意味みたいだ。

 

たぶん、やっている音楽がそんなに大きく変わったわけじゃないし

ずっと一生懸命やってきたということも変わらない。

だけど、歌に含ませることができるようになった

感情の量みたいなものはたぶん大きく変わった。

それはステージに立って表現することへの覚悟とか、

そういうものだったりするのかもしれない。

 

いつ死んでもいいと思えている。もちろん苦しみたくはないけれど。

たぶんこれまで漠然としていた終わりを

もうちょっと明確にイメージするようになったから、

生きているうちに生きている限りを尽くそうという気持ちが大きくなった。

 

3月に名古屋でワンマン、11月にサーキットフェスを開催して

バンドとしても節目となる初年だった。

全部自分発信でいろいろなことを動かすのは本当にしんどいし

だれか代わりにやってくれるなら絶対そのほうがいいと思うし

普通バンドはそういう風にやるのが正しいんだと思うけれど、

でもぼくはそれをやらない。

極言すると意地っていうことなんだとおもう。

不器用だからやれないだけなんだろうけど。。

たぶん逆切れみたいな気持ちが原動力になって動いている。

(誰に対してってことじゃないんだけどイメージで)

 

ここまで書いて気づいた。

ああ、音楽にくべる燃料が変わったんだろうなって思った。

たぶん自分の命だねこれ。

 

いつまでつづくかほんとうにわからない。

のうのうと何年も続いているのかもしれない。

でも、来月くらいになくなっているのかもしれない。

たぶん前触れなんてない。しいて言うならずっと前からもうそれだ。

 

来年も風前の灯火を続ける。願わくば最長記録を更新し続けたい。

 

長くここまで読んでくれてありがとう。

最後にっていうか、書き出して最初に言いたかったこと。

今年一年、ほんとうにありがとうございました。

続けていられるのは、まちがいなく続けていることを

肯定してくれるひとたちの存在あってのこと。

 

来年もがんばります。

来年はきっとCD出します。

 

今年よりきっとしあわせになりましょうね。

また会えたらうれしいです。